三浦一族人物紹介

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三浦為通

(?〜1083年頃)

 三浦氏初代当主です。平忠通の嫡男で、平景通(鎌倉権大夫)の兄です。

 弟・景通と供に源頼義(伊予守)に仕え、前九年の役に奥州で活躍し康平6(1063)年その功績によって相模国三浦郡を賜はり三浦と称しました、そして衣笠山に城を築きました。おそらく弟・景通も前九年の役に功績があって、相模国鎌倉郡を賜ったと考えられています。景通の子孫は「鎌倉党」という武士団を形成し、大庭氏、梶原氏、長尾氏などの祖となっていきます。

 源頼義の父・源頼信は冷泉院の判官代に任じられ、そして相模守にも任官しています。そして頼義自身は、冷泉院の孫・小一条院敦明親王の判官代として仕えています。頼義も相模守として相模国に赴任していて、三崎庄は三浦半島の最南端にある荘園で、小一条院からその皇女の冷泉宮に継承されて「冷泉宮領」とされました。そして三浦氏・鎌倉氏は頼義の代官的な役割をもって鎌倉周辺を支配していたと思われます。とくに三浦氏は小一条院領内→冷泉宮領内の三崎庄の荘官、ならびに北部の三浦郡を領し、三浦郡各地には三浦一族が入部して開発がなされ、開発地は寄進されて「三浦庄」となり、三浦氏はその庄司として発展していくことになります。

 

三浦為継

(?)

 三浦氏2代目当主です。三浦平大夫為通の嫡男。『吾妻鏡』建保3(1213)年5月2日条によると、為継は「嚢祖三浦平太郎為継」とされています。

 頼義の嫡男・八幡太郎義家の郎党として従弟の16歳の鎌倉景正(権五郎)とともに従っており、後三年の役に参陣しました。彼らは金沢柵攻めに参加して活躍しましたが、このとき、景正が敵の矢を右目に受けて負傷。景正は右目に矢を射立てたままその敵を射殺し、帰陣して自ら矢を抜こうと試みましたが抜けずに倒れました。為継も帰陣して景正のもとに駆けつけ、その矢を引き抜くため、沓を履いたまま彼の顔を踏みつけました。これに激怒したのが景正でした。  景正は顔を踏まれるや、「生きているうちに面体を踏まれるのは死にまさる恥辱。汝を敵と見なしてここで切り死にすると刀を抜いて為継に斬りかかり、これに驚いた為継は顔を踏むという非礼を詫びて、彼の顔を抑えて矢を引き抜きました・・・という有名な話しもあります。

 

三浦義継

(?)

 三浦氏3代当主。三浦平太郎為継の嫡男。官途は相模介。荘官としては三浦庄司。

 義継はおそらく元服時には源義家をその烏帽子親としていると思われ、一字を頂いて「義継」を称しように思われます。その後、義継は三浦郷を寄進して三浦庄を成立させて庄司職に就任。「三浦庄司」と称しました。そして義継もまた父・為継と同じように源家の郎従として活躍したと考えられます。

 

 

三浦義明

(1092〜1180)

三浦氏4代当主。三浦荘司義継の嫡男。母は不詳。妻は秩父荘司重綱の娘。通称は三浦介・三浦大介。官途は相模介・検断職。荘官としては三浦・三崎荘司。

 

義明は天治年間(1124−1126)ごろから相模国の在庁官人として国衙に出仕していたとされ、同じ時に相模国検断職を帯されていました。のち、「相模介」に任じられ、「三浦介」を称しました。ただ、父・義継は荘司職を天養2(1145)年3月以降まで握っており、義明が三浦氏の全面的な権限を得たのはこれ以降と思われます。

 義明は保延6(1140)年ごろ、鎌倉の館にある源義朝に娘を娶せたといわれ(『平治物語』上)、保延7(1141)年、鎌倉において嫡男・源義平が生まれたとされますが、義平の母は遊女ともされ不詳です。また、他の娘も武蔵秩父党の畠山荘司重能、上総平氏の上総権介常澄の子・金田小大夫頼次にそれぞれ嫁いで、関係を深めています。畠山・上総氏はそれぞれ武蔵国・上総国の有力在庁であり、彼らと結ぶことによって更なる地盤の強化を狙っていたと考えられます。特に上総広常は義朝(義平)の側近として鎌倉に館をもち、頼次は三浦党に加わって三浦郡内に所領を与えられ、彼の名字にちなんで金田村(現在の三浦市南下浦町金田)と称されました。

 久寿2(1155)年、義平が、武蔵国比企郡大蔵館の叔父・源義賢(前帯刀先生)と秩父重隆(武蔵惣検校)を追討した際には、重隆と対立関係にあったと推測される甥・畠山重能(叔母は三浦義明の妻)が義平軍に加わっており、このときの縁によって重能は義明はじめ三浦氏と密接な関わりを持つようになり、長寛元(1163)年ごろに義明の娘を娶ったのではないかと思われます。父・義継の引退後、義明は国衙守護人=相模介に就任して「三浦介」を称し、相模国国衙の権力を握り、子供たちを三浦半島の各地の領主として派遣しました。

そして晩年兵数において劣り、連日の戦いで疲れ切っていた三浦勢は、これ以上の籠城は一族の滅亡につながると、城を捨てて落ちることを決定し、義澄はこのことを父・義明に告げました。しかし義明は逃れることを拒否し、

「我、源家累代の家人として、幸ひにその貴種再興の秋に逢ふなり。なんぞこれを喜ばざらんや。保つところすでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今、老命を武衛に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。我一人城郭に残留し、多軍の勢に摸して、重頼に見せしめん

として、義明ひとりがわずかな郎従を従えて城に残り、三浦義澄・和田義盛以下、三浦一党は義明の命に従って、泣く泣く衣笠城を脱出して、城の東・栗浜から安房国へけて船出していきました。この翌朝、義明は小雨のなかで江戸重長の郎従によって討ち取られました。享年89歳といわれます『吾妻鏡』

嫡男・義宗(太郎)は鎌倉に隣接する鎌倉郡杉本郷に城を築き、義宗の嫡男・義盛(小太郎)ははじめ杉本城にあって杉本太郎と称していましたが、父・義宗の戦死後は弟・義茂(小次郎)が杉本城に拠って、義盛自身は三浦郡和田郷に移り住みました。義宗の三弟・義久(三郎)は大多和村に、義春(四郎)は多々良村に、義季(五郎)は長井村に、重連(六郎)は杜戸村に、義連(十郎)は佐原郷にそれぞれ住んで、郷村地を名字としました。さらに、義明の弟・義行(次郎)は津久井村を、為清(三郎)は蘆名村を領し、末弟の義実(悪四郎)は大住郡岡崎郷をそれぞれ領しました。三浦一族の所領は義明のころに最大となり、三浦半島全域、相模中央部の大住郡東部一帯、愛甲郡石田郷、国府のある余綾郡大磯郷はじめ二宮庄のほか、安房国平北郡も支配下において、現在の東京湾の入り口である浦賀水道、ほかおそらく国府をのぞむ相模灘周辺の海域も管轄していたのかもしれません。三浦氏の一族が入っていった郷名地はその多数が海に面しており、三浦氏が海を重要視していたことがわかります。安房国に移住した三浦氏として、三浦為継の弟・為俊(検非違使・駿河守)の子・為景(八郎)がおり、彼は安房国安西郷に住んで「安西」を称したとされます。彼の子孫・安西景益は安房に逃れてきた頼朝に味方し、館に招いています。

 しかし、平治の乱によって棟梁と仰ぐ源義朝が殺されると、鎌倉党の大庭三郎景親が「相模国守護人」として、平家の威勢のもとで相模の豪族たちを支配下に収め、平家に従わない兄・大庭景義(大庭御厨司)や三浦党・中村党などを圧迫していきました。もともと三浦氏は国衙守護人として、国府に隣接する大住郡岡崎に義実(四郎)を派遣しており、さらに西相模最大の武士団・波多野一族の大友経家とも縁戚関係をもち、波多野大友氏=三浦氏=岡崎氏=中村党が結びついて西湘に影響力を強めて、大庭氏に対抗していました。

 しかし、義明も時代の流れには逆らえず、義澄(荒次郎)を大番役として平家政権の京都に上洛させています。このとき、房総の遠縁である千葉介常胤の六男・千葉胤頼(六郎)も上洛しており、治承4(1180)年5月におきた「以仁王の乱」では、ともに平家の命によって大番役の延長と京都の守備を命じられています。そして以仁王・源頼政が討ち取られると、ようやく大番役も解かれて帰国が許されました。こうして義澄・胤頼はその帰途、伊豆国北条蛭ヶ小島の頼朝の配所を訪ねて、頼朝と「御閑談」におよんでいます。「他人これを聞かず」とあり、義澄・胤頼はこのとき京都での合戦の動向ならびに、挙兵の手はずなどを計画していたのかも知れません。以仁王・源頼政の打倒平家の挙兵計画は、5月10日、頼政の郎従・下河辺行平(八条院御領下総国下河辺庄司)によってすでに頼朝のもとに届けられています。

 

杉本義宗

(1126〜1164)

三浦氏5代当主になる予定でした。三浦介義明の嫡男です。通称は太郎。 義宗は、鎌倉郡杉本村に進出して館を築き、杉本を称しました。また、安房国の三浦氏の所領である平北郡をめぐる長狭常伴(六郎)との争いもおこっており、長寛元(1163)年秋、常伴の居城・金山城(鴨川市金山)を攻めるべく水軍を率いて三浦半島を出帆しました。そして安房国の先端を廻って、長狭常伴の所領に敵前上陸を試みましたが、義宗の出陣を察知して海岸で待ちかまえていた常伴軍は、上陸してくる三浦軍を狙い撃って、義宗もこの矢に当たって負傷。軍勢を三浦郡に退却させましたが、百日に満たずして没しました

義宗が没した年、彼の父・義明はすでに73歳であり、おそらく義宗に家督は継承されていたのではないかと思います。義宗は衣笠城からより鎌倉に近い場所に拠点を作ることを考え、六浦路・三浦路のとおる要衝・杉本に館を構えて杉本と称しました。

 義宗の嫡男はのち幕府の侍所別当となった和田義盛で、幕府の成立後、三浦党は嫡男=義宗系である和田氏と、家督を継承した二男=義澄系で分裂したことになり、互いに一族としての関わりは深く保っていったものの、建保元(1213)年、和田義盛が起こした鎌倉合戦の際には、協力を約束していた従兄弟・三浦義村が北条義時のもとに参じて義盛を討ち取り、義村は侍所所司五名の一人に選ばれ、就任することとなります

『延慶本平家物語』第二末十二条

「…嫡子椙本太郎義宗は長寛元年の秋、軍に安房国長狭城責めとて大事の手負て、三浦に帰して百日に満たざるに卅九にて死にけり…」

『系図簒要』平氏三・和田義宗項

「杉本太郎 長寛元年於安房国合戦中矢着岸時殺 卅九」

 

三浦義澄

(1127〜1200)

 三浦氏5代当主。三浦介義明の二男。通称は矢部次郎。または荒次郎、三浦介。官途は相模介。娘は天野政景・安西景益に嫁いでいます。

 上総権介常澄の加冠によって元服したともされ(『中世東国武士団の研究』野口実氏著)、衣笠城下の矢部村を領して「矢部次郎義澄」を称していました(『系図簒要』)

 長寛元(1163)年秋、兄の杉本義宗が安房で負った傷がもとで没すると嫡子とされ、老齢の義明に代わって三浦党の指揮をとっていたと思われます

和田義盛

 

杉本義宗の嫡男。久安3(1147)年誕生。通称小太郎。長寛元(1163)年、17歳のとき房総半島の安西氏が領地争いで三浦に援軍を求めてきた際、父の義宗は義明の命令で出陣。この時の負傷がもとで39歳で逝去している。後年、義明より和田の里(現・三浦市初声町和田)を与えられ、和田を称す。治承4(1180)年8月、源頼朝の側に付いていたため、石橋山合戦に参戦するも間に合わず、衣笠城への帰途、鎌倉由比が浜で敵方の畠山重忠と遭遇。合戦に及んだが勝利を飾った。後日、重忠・河越重頼・江戸重長の大軍に衣笠城を攻撃されて落城(「衣笠合戦」)。義明は自刃したが、他の一族は久里浜から海を渡って安房(千葉県)にのがれ、房州に退いていた頼朝と合流したという。11月17日、源頼朝の信任を得て武士の統制機関である侍所別当に任じられる。

 建久10(1199)年1月に頼朝逝去後、源頼家(2代将軍)の生母・北条政子の意向もあって幕府の運営権を13人の有力御家人(北条時政、北条義時、三浦義澄、和田義盛、比企能員、安達盛長、八田知家、梶原景時、足立遠元、大江広元、三善康信、藤原行政、中原親能)による合議に委ね、義盛もそのひとりとなりました。しかし、幕府権力を巡る政争が頻発し、梶原景時、比企能員、源頼家、畠山重忠、北条時政がその粛正にあっている。承元4(1210)年6月3日、土肥・小早川一族と松田・河村一族と丸子川(酒匂川)の争いを鎮定しました。

 建暦3(1213)年2月16日、信濃の御家人・泉親衡が源頼家の子・千手を奉じて源実朝と北条義時を排除すべく決起を謀りますが失敗。その党に加担していた義盛の子の和田義直、義重、甥の胤長らが捕らえられます(「泉親衡事件」)と、直ちに御所へ駆けつけて源実朝に和田一党の放免を願い出ています。実朝は義直・義重を赦しましたが、甥の胤長は義盛の面前で捕縛されたまま追放された為、実朝の背後にいた北条義時に恨みを抱くようになります。やがて5月3日に挙兵。三浦惣領家の惣領・義村の裏切りに遭うものの、幕府・北条屋敷等を襲うなど、緒戦は優勢であったといいます。しかし、嫡男・義直討死の報を聞くと戦意を喪失し、一族とともに敗死します(和田合戦)。享年67歳。意志が強く純粋で誠実、裏表のない、竹を割ったような性格の人と伝えられています。

 

三浦義村

三浦氏6代当主。三浦義澄の嫡男

三浦泰村

三浦氏7代当主。三浦義村の二男

佐原盛連

三浦氏8代当主。佐原義連の二男。母は武田信光の娘。通称は次郎。官位は従五位下。官職は兵衛尉、のち遠江守

 

まだまだ続きますが和田の家系とは関係なくなりますので省略します。

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